模様の中でも好かれやすい木のイメージ。
私たちは模様を何気なく選んでいるようで、実はその中に様々な願いを込めているのではないでしょうか?
今回の特集では、木の持つイメージや、様々な神話や伝統として各々の木に与えられてきた意味や事柄をお伝えしていきます。
好き嫌いで柄を選ぶのも直感的で良いかと思います。
そこに古くから伝わる意味や願いを要素として加えることで、好き嫌いだけでは決めかねていたお客様へ自信を持って選んでいただけるような手助けをしていけたらいいと思います。
ただの柄として提案された木ではなく、健康や豊穣、結婚による家族の繁栄や勝利などといった意味をも含めて提案する際の材料となりますよう願っております。
中世までの西洋絵画には、自然は背景として単純に描かれていました。
それは足元の草であったり、主人公である人物が持つ花であったり、場所をあらわす植物だったり...、
中心はあくまで人間や神であり、自然というのは遠近感のない貼り付けたような草や木でした。
しかし、西洋文化の底に流れる各種の神話(ギリシャ神話・北欧神話・ケルト神話など)では、人々は木に神を感じ、大地と大空をつなぐものとしての畏敬を感じ、長い年月を生き抜いてきた智慧を感じ、世界を支える力強さを感じてきました。
小さな実から生じ、当時の人間の年齢の100倍も千倍も長生きをし、時には空に届くかのような驚異的な高さに育ち、季節ごとに花を咲かせ、人間の糧になる実を与え、大地を肥やす葉を落とし、冬には死んだように枯れていながら春には驚く生命力で新芽を萌えさせる。
この木に人は神の力を感じ、敬ってきました。
そして長い年月を生き抜いてきた木には、神の使い、もしくは神そのもの、時には神へ人間をつなぐものとしての役割を与えてきました。
また、同時に木は深い森を作り出し、その実で人間の飢えを満たし、人間の生活の役に立つ道具(農具・生活用具・燃料)になり、雨や嵐、雪や外敵などから命を守る家の材料となり、遠くへ行くための交通手段(船・馬車など)にもなりました。
さらには槍や棍棒、矢といった武器にもなって人間の生活の拡張と充実に深く関わってきました。
一方、このように人に恩恵をもたらす反面、木が集まった森では、人に害をもたらす動物(狼・猪・熊など)が闊歩し、深い森では出口を失って迷いながら命が尽きたり、死者を埋葬する墓地でもあり、幽霊や怪物、精霊といった恐ろしいものが潜む場所でもありました。
人類が類人猿から二足歩行に移り、文化を創り出して現在に至る間も、木はずっと人間のそばで、静かに人類を見守り、惜しげなく与え、人間の心を癒し続ける存在でした。
だからこそ人は身近に庭を持ち、木を植え、森に遊び、木を慕い続けるのではないでしょうか。
世界各地の宗教、特にインドーヨーロッパ語族系の宗教やシベリア、アメリカ先住民の宗教に特徴的に見られる大樹。
その巨大さのために天国を支え、根で地下の国とつながっていると言われ、生命の木とも言われる。
スカンジナビアの聖なる宇宙樹Yggdrasil(イグドラシル)。
トネリコの木であると言われる。
3本の根を持ち、一本は神々のすみかであるアスガルド、1本は人間界であるミッドガルド、1本は根の国ニヴルハイムを覆っていると言われる。
このトネリコの木の根元に湧き出る泉は運命の女神(三姉妹)のうちの長女ウルズに由来するウルズの泉と呼ばれる。
この泉の水は強力な浄化作用があり、この泉の水と泥を混ぜたものでユグドラシルが枯れないように常に注いでいると言われる。
霜の巨人の住むニヴルハイムに通じる根のすぐ下にはミーミルの泉があると言われている。この泉には知恵と知識が隠されており、賢い巨人ミーミルが所有している。
英知を求めてやってきた北欧神話の最高神であるオーディンはこの泉の水を一口飲んで、すべての智慧を手に入れることの代償に片方の眼球を差し出す
このことによって、世界中の神話でも稀に見る片目の最高神が誕生する。
エデンの園の中心にあったと言われる知恵の木。
その知恵の木の実こそ「神のように善悪を知るもの」になるという「禁断の果実」。
一般的にはりんごと言われるが、Apple(りんご)は「実」全体を指す語でもあるので、必ずしもりんごの実であるという定義はされていない。
神が天地創造を終え、エデンの園に人間を作り、アダムの肋骨からイヴを作り出し、エデンの園に実るものは何でも食べることを許したが、唯一知恵の実だけは食べることを許さなかったのが「禁断」と呼ばれる所以。
蛇の誘惑に負けて知恵の実を食した二人はやがてエデンの園を追われる。
アダムは労働によって妻と子を養うことを罰として与えられ、イヴは出産の苦しみを与えられる。
楽園で暮らす苦しみのない生活を失い、常に危険と冒険と不安に満ちた生活を余儀なくされるかどうかはこの知恵の木の実に手を出してしまうかどうかで決まったとも言える。
そして禁断の果実を食べ、神に背いたこと。これが人間の「原罪」と呼ばれる罪である。
人間の愚かさが試された「事件」ではあるが、同時に人間が「賢さ」を手に入れて、家畜のような生活から抜け出したことを象徴する出来事であるとも言える。
バラはもともと愛の女神ヴィーナスの花とされていたが、キリスト教がヨーロッパを席巻すると、聖母マリアの純潔さや清純さと結びつけられるようになった。
それまでのバラが愛の女神による性愛も含む愛全体を象徴していたのに、キリスト教で取り上げられた途端「無原罪の宿り」である聖母マリアの純潔さを表す花になろうとは、なんとも皮肉な変化とも言える。
バラ自体はそもそも低潅木に分類され、低い木である。
手入れがよければ、10年以上長生きすることもある。
原種のバラは一重の花びらであったが、人間に愛されることで改良を重ね、多種多様な品種が開発されてきた木の一つである。
キリスト教世界では、棘のあるバラは「人間の原罪」をあらわし、美しいものには棘があるといった物事の二面性を表している。
もともとエデンの園にあったバラには棘がなかったとされ、アダムとイヴが罪を犯したためにバラに棘ができたことになっている。
そこで、唯一汚れることなく身ごもったマリアの純潔を示すために、マリアのそばに描かれるバラには棘がないことになっている。
つまり棘のないバラは純粋・純潔・清純といった、汚れない美しさを象徴している。